ジュラシック・ジージ

「ねえジージ、ジージが子どものときって、恐竜いた?」
5歳になる孫と一緒に「恐竜図鑑」を見ていたら、彼がふと、私にこう聞いた。 確かに、ジージが古い生き物であるという彼の認識は間違ってはいない。それに、終戦から十年余りの私の村は、ジュラ紀ほどではないにしても頗る原始的であった。電化製品は電灯とラジオだけ、家庭の熱源はもっぱら薪と炭で、ご飯はかまどで炊いていた。ちょうど、キャンプの飯盒炊爨を毎日やっているようなものだった。

学校も冬には薪ストーブを焚いて暖を取った。夏の間に薪を割り、校舎の板壁に沿って窓の高さまで積んであった。その薪はどこから手に入れたのかと言うと、自給自足だった。国に国有林、県に県有林があるように、私の学校には学有林があった。小学校が山林を所有しているのだ。その山から木を切り出して薪にする。もちろん木を切ったあとは植林をしなければいけないし、植林のあとは下草刈りをしてやらないと苗木がすくすく育たない。私の学校では、この下草刈りが5,6年生の仕事だった。下草刈りに行けるというと何だか少し大きくなったような気がして、ささやかな満足感を抱いたものだった。

5年生の下草刈りの日のことだ。私は身の丈ほどもある大鎌と母が作ってくれた塩むすびを持って出かけた。雨上がりで下草は露を含み、山の斜面は滑りやすくなっていた。木立を渡る初夏の風にふと空を見上げたときのことだ。私は足を滑らせてバランスを崩し、持っていた大鎌を放り出して地面に手をついた。すると運悪く手をついたところに、放り出した大鎌の刃があった。不自然な角度に曲がった小指を押さえながら立ち上がると、血と泥の混じった赤黒い液体が、私の腕を伝って流れた。 「ふくちゃんが大変!」仲良しの久美ちゃんが慌てて先生を呼びに行った。駆けつけた担任の先生はご自分の水筒の水で私の傷口を洗い、指の付け根を縛って止血をしてくれた。けれど、電話も車もない山の中では、もうそれ以上は成す術がなかった。すると、何を思ったか、先生は山のふもとを通る国道まで私を引っ張って降りていき、通りかかったトラックを止めた。町の医者のところまでこの子を連れていってくれないかというわけだ。 事情を知ったトラックの運転手は、私を25キロ離れた町まで乗せて行ってくれた。町の医院の老医師は私の小指を3針縫ったあと、「大丈夫だ。指はつながるから安心しろ」と言ってくれた。痛みも不安も治まった私は4時間に1本の路線バスに乗って家路に就いた。この間、私はずっと一人で、先生の付き添いは一切なかった。

もしも今の時代に教員がこんな対処の仕方をしたら、間違いなく責任問題になることだろう。今私は小学校に非常勤で勤めているが、子どもが運動場で遊んでいて擦り傷を創っただけで、担任は家庭に連絡を入れる。体温が平熱より1度高ければ、保護者に迎えに来てもらって早退をさせる。それが正しい対処法なのだろうが、私にはどうにも過保護に思えてならない。 バスを降り、家に着くと、私は一部始終を両親に伝えた。すると、私のけがのことはそっちのけで、両親の口から出て来たのは、担任の先生とトラックの運転手と町の医者への感謝と称賛の言葉ばかりだった。

肝心の私の指はどうなったかというと、老医師の言った通りちゃんとくっついた。 今でも残るコリコリした傷跡をさすると、長い戦争が終わって平和が戻り、自由と希望に満ち溢れ、すべてに大らかだったあのころを思い出す。下草刈りの木々の間からのぞく空の方が今よりずっと青かったような気がするのは、古い人間のノスタルジアに過ぎないのだろうか。

「ジージ子どものとき恐竜いた?」と聞く孫に私は、「いたいた、このとげとげのトリケラトプス、のっしのっし歩いてたぞ」と得意顔で答える。期待通りの答えに私を見上げる恐竜大好き小僧の瞳に、トリケラトプスが映っているように、私には見えた。

 

学有林

〔60年経った今も健在の学有林〕

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